日本プロ野球史上最高のユーティリティープレイヤー故木村拓也さんをしのぶ
2010年の今日(4月7日)日本プロ野球史上最高のユーティリティープレイヤーだった木村拓也さんが亡くなられました。
個人的にも、私たち家族にとっても、思い入れの強い選手だったので、家族全員で涙を流した記憶があります。
(2006年2月日南市天福球場にて)
書き始めると長くなると思いますが、始めたばかりで読む人もいないブログなので、勝手につらつら想い出を書いていきます。
史上最高のユーティリティープレイヤー
ユーティリティープレイヤー(Utility Player、UT)は、スポーツ、特に球技において、1人でいくつものポジションをこなす選手を指す言葉である。
野球では、主にバッテリー以外の複数ポジションを守ることができる選手を指す傾向にある。日本では内外野問わず、2つ以上のポジションを守れる選手を指すことが多いが、MLBでは内野手と外野手の両方を守ることができる選手を指す。
Wikipediaによれば、「野球では、主にバッテリー以外の複数ポジションを守ることができる選手を指す」「日本では内外野問わず、2つ以上のポジションを守れる選手を指す」
木村選手は、内外野どこでも守れる(しかも上手い)まさにユーティリティープレイヤーです。
それだけではありません。いざとなればキャッチャーもできます。プロに入るまではキャッチャーでしたし、実際にプロ野球の一軍の試合でキャッチャーを務めたことがあります。
「バッテリー以外の」ポジションを守ることができる選手がユーティリティープレイヤーなら「捕手もできる」スーパーユーティリティープレイヤーです。
ユーティリティーは「万能の」と意味合いを持ちます。
守備以外でも色々な役割をこなすことができれば、更に万能選手です。
レギュラーとして、どのポジションでも活躍できる。
守れるだけでなく、守備固めができるほどの守備力。
スイッチヒッターで勝負強いため相手投手によらず代打としても一流(代打成功率は常にリーグトップクラス)。
代走としても一流。
2004年のアテネオリンピックのメンバーとして、長嶋監督から「絶対に必要な選手」として選ばれています。
各チームから2名ずつの選出で全24人と人数が少ないので不測の事態に備えたユーティリティープレイヤーが必要だったのは納得できます。
木村選手の経歴プロ入り
経歴を簡単に。
宮崎南高校で、強肩、俊足、強打の捕手として活躍。全国的には無名(1年生のときに甲子園に出場していますが出場機会なし)でしたが、プロのスカウトにもマークされていました。
しかし、身長約170センチと小柄だったことから、ドラフトの指名はなく、1990年ドラフト外で日本ハムファイターズに入団します。
入団後、すぐに支配下登録選手から外れ、立場上は任意引退選手、試合に出場できない練習生扱いになります。
その後、外野手に転向して2年目には、守備固めとして一軍の試合にも出場。
外野手転向一年目で、プロの一軍の守備固めができる守備力というのも、普通では考えられません。
その後も、外野の守備要員として一軍と二軍を行ったり来たりの状態が続きます。
広島カープへ
1994年のシーズンオフ、長冨浩志投手との交換トレードで広島カープに移籍します。
「外野手不足に悩む広島が若い外野手の獲得に乗り出した」
それなら、出場機会も増えるのでしょうが、違います。
結果的には大成功だったのですが、なぜあの年にカープが外野手を獲得したのか今でも理解できません。
木村選手が移籍してきた1995年開幕時にカープに所属していた主な外野手を挙げてみます。( )内は年齢です。
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前田 智徳(23)
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緒方 孝市(26)
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金本 知憲(26)
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音 重鎮(31)
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西田 真二(34)
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河田 雄祐(27)
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浅井 樹(23)
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町田 公二郎(25)
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仁平 馨(23)
ここまでが、一軍クラスの外野手です。
他にも、内野手登録ですが山田 和利(29)も外野でスタメンを務めることもありました。
西田は、代打の切り札だったので先発出場はないとしても、錚々たるメンバーです。
しかも若い選手が沢山います(木村選手が当時22歳)。
若手には、福地 寿樹(19)もいます。
木村選手が広島に入団するタイミングで、誰かカープを去った外野手がいたのか調べてみたら、ひとりいました。
あまり関係ありませんが、少し気になったので書いておきました。
ユーティリティープレイヤーに
当時のカープ野手陣は、外野には先に示した錚々たるメンバーがいて、内野も充実していました。
ベテランだったので、近い将来ポジションが空くとすればセカンドだけ、そう考えたのです。
広島に入団した1995年はセカンドの練習、そして1996年はスイッチヒッターの練習。
そして1997年に一軍定着、1998年は怪我の野村に変わってショートもこなし、1999年には捕手としても試合出場、投手とファースト以外の全てのポジションを守ります。
2000年から2003年までは、年間130試合以上に出場。
2004年は、広島の野手として、前田、新井、嶋、栗原らを抑えてアテネオリンピックのメンバーに。
ドラフト外で入団し、すぐに支配下登録から外れた選手が、ここまでの飛躍を遂げたのです。
日本ハムの評価
こう書くと、木村選手を放出した日本ハムは見る目がなかったように思われるかもしれません。
実はそうではないようです。
広島移籍の一年前、1993年のシーズンオフに行われた第一回ハワイウィンターリーグにも参加しています。
期待の若手選手が参加するウィンターリーグの第一回目です。
他のメンバーは、イチロー、新庄、城島など……
期待されていたことがわかります。
当時の日本ハム大沢監督は、ゲームに出るチャンスが少ないファイトある若手に活躍の場を与えたいという理由で木村選手を放出したそうです。
その先が、もっとチャンスが少ない広島カープになってしまったのは皮肉ですが。
巨人への移籍
2006年6月、木村選手はトレードで巨人に移ります。
その年に就任したマーティ・ブラウン監督が若手への切り替えを優先して、木村選手が構想から外れたのが原因です。
出場機会を与えられない(一軍にも上がれない)木村選手が移籍を希望したそうです。
フリーエージェントの資格をとっても迷わず広島残留を決めた木村選手にとっては苦渋の決断だったと思います。
チャンスを求めて移籍を希望し、決まったトレード先は当時戦力が充実していた巨人というのもまた皮肉というか、木村選手らしいという気がします。
巨人に移籍した2006年、すぐに一軍登録されて試合に出場。
主に控え選手でしたが、外野、セカンド、サードを守り、代打成功率4割を越えるといういきなりの活躍。
層の厚い巨人でも力を見せつけ、2007年、2008年と主にセカンドを守り100試合以上出場。
そして2009年9月4日東京ドーム。
リードを許していた巨人は8回に鶴岡捕手に変わり代打に木村を起用します。
一塁手として出場していた阿部捕手はすでに交代していたので、9回には加藤捕手が守備につきました。巨人はこれで捕手を使い切りました。
そして、9回裏に同点に追いつき延長戦へ。
延長11回裏、加藤捕手が頭にデッドボールを受け退場してしまいます。
捕手がいなくなった巨人は、木村拓也選手が急きょマスクをかぶることになりました。
10年ぶりです。
しかし、10年前の広島時代のマスクとは全く違います。
10年前は捕手として出場するために練習をしていましたが、このときは急きょです。
サインも何も知りません。
それにもかかわらず、豊田、藤田、野間口という3人の投手をリードして無失点に抑えたのです。
「二塁守備の時に捕手が出していたサインを見た記憶を思い出しつつ」
伝説が生まれました。
そしてコーチへ
この2009年のシーズン終了後、ジャイアンツ球団は木村拓也さんにコーチへの就任を要請しました。
引退してすぐに巨人の一軍コーチ(内野守備走塁コーチ)に就任するのは異例のことです。
でも誰もが納得していました。
「素晴らしい指導者になるだろう」
広島から巨人に移ったとき、「広島は大事な宝を手放した」と言われました。
それは選手としてだけでなく、将来の指導者を失ったことを指しています。
当時から、将来指導者としてプロ野球界に貢献する人材だと思われていたのです。
もし、木村拓也さんが生きていたら、現役を希望していた高橋由伸選手が監督に就任することはなかったかもしれません。
運命の日
コーチに就任した2010年、開幕直後の4月2日のマツダスタジアム。
ノックをしていた木村コーチが突然倒れます。
そして救急車。
レフトスタンドの巨人の応援団から現役時代の木村選手の応援歌が響きます。
そしてライトスタンド、広島の応援団からも応援歌が響きます。
「足の速さは 誰にも負けない 風を切り走れ 木村拓也」
そして2010年4月7日……。
死去当日の4月7日は、開催されたプロ野球の全試合会場で半旗を掲揚したほか、試合前に黙祷が捧げられ、マツダスタジアムではかつて在籍した広島の松田元オーナーらにより[9]、倒れた場所である本塁付近に献花が捧げられた(同球場では試合なし)。また、生前所属していた巨人・広島の各選手と関係者、当日に巨人の対戦相手で広島時代に同僚だった阪神の金本知憲、新井貴浩、岡義朗1軍野手チーフコーチ、広島の当日の対戦相手で、広島時代の同僚だったヤクルトの福地寿樹などが喪章を付けて試合を行った[10][11]。巨人はこの日の対阪神タイガース戦に勝利、小笠原道大は決勝本塁打(甲子園での本塁打は小笠原自身初)を放ち、木村に白星を捧げた。
つい熱くなりました。
個人的な想い出として書きたいことがまだあるのですが、すでに4000文字を超えていますので、一旦筆をおきます。